国家神道
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国家神道(こっかしんとう)とは、明治から第二次世界大戦の敗戦までの間に日本政府の政策により成立していた国家宗教、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。文面上は信教の自由を明記した大日本帝国憲法下の政府見解では、「神道は宗教ではない」とされており、神社は内務省神社局が所管し、神社の造営なども公費で行われていた。第二次世界大戦後、GHQにより「神道指令」(後述)が出され、国家神道は解体した。
目次
- 概要
- 主な国家神道政策
- 出来事
- 国家神道の終焉
1.概要
江戸時代の国学者・平田篤胤の思想に共鳴した平田派の神道家たちが、明治維新の精神を神武創業の精神に基くものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱した為、明治政府はそれを容れて中古以来衰えていた神祇祭祀を復活させ、神道の整備を行なった。その結果として成立した神道の一形態が国家神道である。
(スタブ)神道の宗教としての側面を維持しようとする教団は、公認された一部のものが教派神道として分離され、祭祀としての側面のみを有するものが国家神道とされた。それ故、「神道」と名付けられてはいるものの、?その実態は、日本式キリスト教(唯一絶対の権威を戴いた宗教)という事も可能である。?何故、そのような実態になったのかは、マックス・ヴェーバーの著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がヒントになるだろう。日本において近代国家を建設するには、国家神道が不可欠だったという説もある。
『古事記』、『日本書紀』等の古典を根拠として万世一系の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い紐帯があることを前提に、政治的な制度とともに作られた祭祀の制度が国家神道である。
神道は宗教だが、国家神道は神道の祭祀の側面のみを分離したものであるとされ、宗教ではないとされた。そして、宗教としての神道は教派神道であるとされていた。
信仰の自由は明治時代にも法律上では認められ、仏教やキリスト教は活動を認められていた。しかし、大日本帝国憲法で人権の保障が「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於て」と規定されていたように、その活動は必ずしも無制約ではなかった。そのため、他宗教の礼拝を否定する一神教のキリスト教徒や、神祇不拝を唱える浄土真宗門徒も、神道儀礼への不参加の自由は存在しなかった。
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2.主な国家神道政策
- * 18??年、神道事務局の設置
- * 1868年、神仏分離令。同年、神祇事務局を改め、神祇官とする。
- * 1871年、神祇官廃止、神祇省設置。
- * 1872年、神祇省廃止、教部省設置。
2.1 社格制度
社格を参照。
2.2 人物の顕彰のための神社建立
平安神宮、明治神宮などの天皇や皇族を祀る神社や湊川神社、四条畷神社などの功績のある人物を祀る神社が数多く建立された。
2.3 護国神社
戦死者に対する慰霊を目的として、戊辰戦争時より招魂祭が行われた。やがて各地に招魂社が建てられた。
2.4 神社合祀政策
- * 江戸時代、会津藩や岡山藩、水戸藩、長州萩藩、津和野藩では、批判論が出るなどの議論が続く中で、小祠や淫祠の廃止・統合が行なわれていた。このうち水戸藩の神社合祀政策を特に「八幡改め」と称した。これは旧支配者佐竹氏が尊崇した八幡神社を破壊し、自ら崇拝する鹿島神社に置き換える運動である。
- * 明治になると、神祇官は神社の調査が済むまで神社の整理を行なわない方針をとった。
- * 1876年以降、教部省はこの方針を変更して、無格社や仏堂の整理を開始した。
- * 1906年(明治39年)12月、一町村一社を原則に統廃合を行なうとする「神社合祀令」が出された。同年以来、内務省は数年間かけて神社の整理事業を行なった。神社整理というと一般にはこの頃の事業を指す。合祀が著しかったのが三重県と和歌山県で、三重県の6500社の神社が7分の一以下に、和歌山県の3700社の神社が6分の1以下に合祀された。最初の3年間で全国の4万社が取り壊された。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減した。
事業の目的は、荒廃した小祠や淫祠を廃止・統合して、国家の祭祀として神社の尊厳を高めることにあった。また、地方行政の合理化という側面もあった。
一方で、地域の氏神信仰に大きな打撃を与える、などの理由で反対意見も多く出された。民俗学者、博物学者・南方熊楠は「日本及び日本人」等で十年間にわたって反対運動を行なった。
広大な面積の鎮守の森を失ったことも弊害の一つだったと言える。そのため、神社が保有する森林を材木とし財源とすることがひとつの狙いであったと言われるようにもなる。
2.5 占領地下の神社建立
台湾、朝鮮、南洋諸島などの占領地には神社が建てられた。これはもともとは占領地に在留する日本人が自分たちのために建てたものであったが、占領地の民衆への精神的支配も見据えたものであった。
占領地下の神社建立にあたり、神道家らは現地の神々を祀るべきだと主張したが、政府は賛同せず、多く明治天皇、天照大神を祭神とされた。主に朝鮮神宮、台湾神社、南洋神社、関東神宮、樺太神社などが挙げられる。
2.6 民間信仰禁止政策
とくに性神信仰などが低俗なものや迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。そのため、出雲神道系などの信仰が偏狭な解釈により大きく後退した。また、神社の祭神も、その土地で古来から祭られていた神々ではなく、『古事記』、『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されたものが多い。そのため、地元での伝承が途絶えた場合には、その神社の古来の祭神が不明になってしまっている場合すらある。
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3.出来事
3.1 神道事務局 祭神論争
3.2 朝鮮神宮 祭神論争
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4.国家神道の終焉
1945年8月15日、太平洋戦争の敗戦以後、神道周辺の状況は一変した。連合国最高司令部から、同年10月に政治的、社会的及宗教的自由に対する制限除去の件が、12月15日には国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に公布の廃止に関する件いわゆる「神道指令」が日本政府に覚書の形で通達され、神社は国家から分離することとされ、国家神道の時代が終わった。
1946年2月3日、皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会が合同して神社本庁を設立、宗教法人として神社神道が再出発した。
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